さくら歯科クリニックの院長紹介

地域の医療水準を高め、
健康増進に貢献し続けるために
はじめまして。「さくら歯科クリニック」院長の佐藤正彰です。
このたびは、当院のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
私たちは、歯科医療を通じて地域の皆様の健康に貢献することを使命とし、日々努めております。
また、患者様に寄り添い、最適な治療を提供するために、以下のポリシーを大切にしています。
歯科治療に対する想い
地域の医療水準を高め、健康増進に貢献し続けるために

患者様の悩みをどのように解決できるか、そして現在の状態に至った原因は何か――
これらを正確に診断することが、適切な治療の第一歩だと考えています。
そのために、私は「頼れる歯科医」を目指し、日々研鑽を重ねています。
患者様が悩みから解放され、笑顔になった瞬間こそが、私にとって最も嬉しい瞬間であり、歯科医師としての喜びを実感する時です。
そして、当院の使命は「地域全体の医療水準を向上させること」です。
たとえ高度な技術を持っていたとしても、それだけでは十分な医療は提供できません。
医療には、設備の充実、優れたスタッフ、通いやすい環境(アクセスや予約体制)など、総合的なサポートが必要です。
当院では、これらすべてを向上させるために、日々努力を重ね、その取り組みを皆様にお伝えしていきます。

また、地域の皆様がご自身の健康のために最適な医療機関を選べるような環境を整えることも、私たちの大切な役割だと考えています。
なぜなら、医療水準の向上こそが、皆様の健康と利益につながると確信しているからです。
「歯科医院=虫歯や歯周病を治す場所」という枠を超え、地域の皆様の健康を長期的に支える存在でありたい。
これからも、さくら歯科クリニックはその想いを胸に、地域に貢献し続けます。
経歴
- 平成20年 さくら歯科クリニック開業
- 日本補綴歯科学会 会員
- 日本口腔顔面痛学会 会員
- 日本口腔インプラント学会 会員
- 中四国修練会 会長
- 修練会公認インストラクター
- 第3回、第4回 修練会総会にて症例発表
- 第123回 日本補綴歯科学会にて症例発表
生い立ち
誕生
日本が高度成長期真っただ中、佐藤家の次男として、1974年7月23日に僕は生まれました。
実家は岡山県井原市にあり、父は地元の機械製造会社の会社員、母は歯科技工士をしておりました。
激動の昭和49年は第二次ベビーブームのど真ん中で、『長島茂雄の引退』があった年でもあります。
またユリ・ゲラー氏が来日し超能力ブームで話題となりました。
同じ年に生まれた芸能人は、メジャーリーグで活躍した松井秀喜、SMAPの草彅剛、レオナルド・ディカプリオなど超一流の方々が同級生です。僕ももっと頑張らないと・・。
幼少期
幼少期から、家族で冬になるとスキーに行く事が恒例でした。
当時は交通の便も悪く、約3時間車にゆられてスキー場(鳥取県の大山)まで行っていました。
当時は車酔いがひどく道中とてもつらかった事を覚えています。
いつもスキー場では4つ上の兄と頂上からどっちが早く下まで行けるか競争したり、
リフト下の新雪に埋もれて遊んでいました。そのかいもあってかスキー検定では1級を取る事もできました。
また、小学校3年生の時には、学校にある鉄棒から落ちて左腕を骨折し、入院もしました。
でも入院中、雑誌の懸賞に見事当選し、当時流行っていたおもちゃをもらったことを今でも覚えています(ラッキー!)。
小学校5、6年時代は空前のファミコンブームで、友達との話題はもっぱらゲームの話でしたが、自分はというと、当時はラジコンにはまっていました。


中学時代、高校時代

中学は地元の井原中学に通いました。部活は水泳部で平泳ぎを専門でやっていました。今でこそ北島康介、立石諒などの有名選手がいてかっこいいイメージがありますが、当時は地味な泳ぎ方でなんで自由形などの花形の泳ぎをしなかったのだろうとちょっと後悔していました。しかし、市の大会では1位となり、県大会にも出場しました。
大学時代
晴れて現役で近畿大学理工学部に入学しました。しかし、大学にはほとんど行かず軽音楽部でギターばかり弾いていました。
その後、仮面浪人をして朝日大学歯学部に入学しました。


勤務医時代
勤務医として初めて就職したのは岡山県笠岡市にある笠岡病院の歯科でした。
その後、東京で8年間にわたり歯科医院で勤務し、多くの経験を積みました。